寒雷  かんらい

創刊号 十月号/昭年15年10月(=1940年10月)号
一冊(一部): 四十銭 送料二銭

「寒雷集」巻頭句 加藤楸邨 選

俳号: 田川飛旅子  所在地: 東京市

胸の瀑布替へゐるひまも聴く野分    
蚊帳透きて昧爽の書架見えはじむ    
かなかなに窓の朝焼須臾の間ぞ    

俳誌一覧(発刊順)

ホトトギス ( 高浜虚子/明治41年10月 )
層雲 ( 荻原井泉水/明治44年7月 )
雲母 ( 飯田蛇笏/大正6年12月 )
馬酔木 ( 水原秋櫻子/昭和3年7月 )
かつらぎ ( 阿波野青畝/昭和4年1月 )
玉藻 ( 星野立子/昭年5年6月 )
花衣 ( 杉田久女/昭和7年3月 )
寒雷 ( 加藤楸邨/昭年15年10月 )
風花 ( 中村汀女/昭和22年5月 )
芹 ( 高野素十/昭和32年5月 )

よむヒント

選者である加藤楸邨の俳句に、芭蕉のような挨拶句は見当たりません。
子規の唱えた写生でもなく、虚子の見つけた客観でもありません。
どこか生々しく、純粋でうす暗く、青臭い。
そんな作風から人間探求派、難解派と呼ばれました。

楸邨の代表句
かなしめば鵙金色の日を負ひ来
直訳すると「悲しんでいたら、夕日を背負い金色に輝く鵙(もず)が私のもと飛んで来た。」という感じでしょうか。昭和10年ごろの作品。2年ほど前に次女を疫病で亡くしています。

鰯雲人に告ぐべきことならず
日本が戦争に向かい始めた時期に詠まれた一句です。言われてみれば、そんな空気感もあります。楸邨は中学校の教師でした。

天の川わたるお多福豆一列
79歳のときの作品。晩年になり大きく句柄が変わったといわれていますが、生涯を通じて前衛だったのかもしれません。

楸邨は主宰誌「寒雷」の創刊にあたり、
巧い俳句ではなく、俳句の中に作者の生きる姿勢を求める
というようなことを書いています。
そんな彼の選んだ創刊号の巻頭句が上記の3句でした。
なるほど、俳句の中に‥‥‥‥その前に漢字が難解すぎる(笑)。
作者の田川飛旅子(たがわ・ひりょし)は東大卒の科学者であり、敬虔なクリスチャンであったとか。のちに俳誌「陸」を創刊するほどの実力者でもありました。
ちなみに、家庭の事情で18歳で中学校の教師となった楸邨は、
依然学問への強い思いを断ち切れず、
32歳で東京文理科大学国文科に入学しています。
そして卒業後に再び中学校の教師となりました。その同年の10月、周囲の強い勧めで「寒雷」を創刊しています。(人生いろいろですね。)

<難解な巻頭句について>
胸の瀑布替へゐるひまも聴く野分
※瀑布(ばくふ):滝のこと。
※野分(のわけ):【秋の季語】雨を伴わない強風。台風や嵐のことをいう。

蚊帳透きて昧爽の書架見えはじむ
※蚊帳(かや):【夏の季語】蚊を防ぐために吊るすもの。夏はこの中で寝る。
※昧爽(まいそう):夜明け。暁。明けるころのほの暗さ。
※書架(しょか):本棚のこと。

かなかなに窓の朝焼須臾の間ぞ
※かなかな:【秋の季語】ひぐらし。蝉の一種でカナカナと澄んだ声で鳴く。
※須臾(しゅゆ):しばらくの間。わずかの間。


【加藤楸邨(かとう・しゅうそん)】
明治38年(1905年)~平成5年(1993年)/東京生まれ。
病気の父を助けるために進学をあきらめ、18歳で中学校の代用教員となる。その同僚に誘われ作句をはじめた。水原秋櫻子に師事、「馬酔木」同人。昭和15年に俳誌「寒雷」を創刊、主宰。戦時下の学生層作家の拠点となった。弟子に恵まれ、金子兜太、森澄雄、平井照敏などを排出した。
芭蕉研究家、青山学院女子短大教授。

引用: 「寒雷」十月号(創刊号)/交蘭社(昭和15年10月)

矢印

【 加藤楸邨に学ぶ、名人の視点!】

今、一番つらいと思っていることを俳句してみる。

楸邨の俳句の材料は、自分の中のわだかまりや憤り、そして孤独感です。おそらくそれらを変換もしくは断片化しています。(ゆえに、ひとり言っぽく、詩的で、難解なのです、たぶん。)裏を返せば、人として明るくあるための「負との対峙」、そこに視点を据えたものこそが楸邨の俳句なのかもしれません。

あらためて上記巻頭句を味わってみる

「創刊号の俳句」の参考書籍、おすすめの書籍

※上記巻頭句に関しては、該当資料からの引用として収集・掲載させていただいています。
※旧漢字については、インターネットの特性上、また初心にも読みやすいよう考慮し、常用漢字に変更している場合があります。
※「ゝ」や「ゞ」などの踊り字については、横書き表示ということもあり、読みやすさを優先するため、適切な平仮名に変更させていただいています。