層雲 そううん
第一巻第三号/明治44年7月(=1911年7月)号一冊(一部): 弐拾銭(郵税共)
「雲層々」巻頭句 荻原井泉水 選
俳号: 朱字樓 所在地: ――
俳誌「層雲」は、季語や定型にこだわらない自由律俳句の先駆けとなった雑誌です。その急先鋒となったのが、若きリーダー・荻原井泉水(おぎはら・せいせんすい)でした。虚子が唱えた「有季定型」を現代俳句における偉大な功績とするならば、井泉水が築いた「自由律俳句」の定義もまたもっと広く評価されるべきなのかもしれません。(井泉水がいなければ、放哉の名句も山頭火の名句も、この世に生み出されることはなかったのかも?)しかし、自由律俳句の定義はひじょうに抽象的でわかりにくい、というのが、本当のところでしょうか。月光しみじみとこうろぎ雌を抱くなり空をあゆむ朗朗と月ひとり 荻原井泉水(1884~1976)咳をしても一人こんなよい月を一人で見て寝る 尾崎放哉(1885~1926)分け入つても分け入つても青い山まつすぐな道でさみしい 種田山頭火(1882~1940)取り上げた巻頭句は、この第三号からはじまった雑詠欄「雲層々(春季雑吟)」のものです。発行当初の「層雲」は、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)が唱える新傾向俳句を推進する機関誌という役割でした。井泉水はその経営者であり、編集人。(井泉水が主宰となり、「自由律俳句」へと向かうのは大正になってから)船倉路笹刈りて汐に春立てり新傾向俳句の特長は5・7・5という定数をまず壊すこと。例えば、上記のような5・5・3・5などの4句割りを基本型としました。自然、20文字以上の長い句もたくさんできたといいます。しかし、長さは「ぬるさ」とも言えなくもない。ましてや定型を否定しながら、新たな定型を求めるなど矛盾です。この2年後、井泉水は師である碧梧桐に異を唱え、自由律俳句の確立へと邁進しはじめました。【荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)】明治17年(1884)、東京都港区生まれ。東大言語学科卒。俳句は中学からはじめる。明治44年、新傾向派の河東碧梧桐を擁立し「層雲」を創刊。大正2年頃から同誌にて季語無用論を展開しはじめ、自由律俳句へと発展させた。尾崎放哉、種田山頭火ら多くの自由律俳人を育てた。句集から一茶・芭蕉の研究まで、生涯に400冊近い著書を残したという。昭和51年(1976)死去、享年91歳。
引用: 「層雲」第一巻第三号/層雲社(明治44年7月)
井泉水の有名な言葉です。ここでいう「青年」とは、心の在り方、年齢も性別も関係ありません。心の中にあるまるごとを着飾ることなく俳句の中にぶち込んでいく。それこそが、井泉水の求めた俳句の理想でした。上手いだけの点取り俳句を大いに嫌った、理想に燃える若き指導者だからこその視点なのかもしれません。
※上記巻頭句に関しては、該当資料からの引用として収集・掲載させていただいています。※旧漢字については、インターネットの特性上、また初心にも読みやすいよう考慮し、常用漢字に変更している場合があります。 ※「ゝ」や「ゞ」などの踊り字については、横書き表示ということもあり、読みやすさを優先するため、適切な平仮名に変更させていただいています。