寒雷 かんらい
創刊号 十月号/昭年15年10月(=1940年10月)号一冊(一部): 四十銭 送料二銭
「寒雷集」巻頭句 加藤楸邨 選
俳号: 田川飛旅子 所在地: 東京市
選者である加藤楸邨の俳句に、芭蕉のような挨拶句は見当たりません。子規の唱えた写生でもなく、虚子の見つけた客観でもありません。どこか生々しく、純粋でうす暗く、青臭い。そんな作風から人間探求派、難解派と呼ばれました。楸邨の代表句かなしめば鵙金色の日を負ひ来直訳すると「悲しんでいたら、夕日を背負い金色に輝く鵙(もず)が私のもと飛んで来た。」という感じでしょうか。昭和10年ごろの作品。2年ほど前に次女を疫病で亡くしています。鰯雲人に告ぐべきことならず日本が戦争に向かい始めた時期に詠まれた一句です。言われてみれば、そんな空気感もあります。楸邨は中学校の教師でした。天の川わたるお多福豆一列79歳のときの作品。晩年になり大きく句柄が変わったといわれていますが、生涯を通じて前衛だったのかもしれません。楸邨は主宰誌「寒雷」の創刊にあたり、巧い俳句ではなく、俳句の中に作者の生きる姿勢を求めるというようなことを書いています。そんな彼の選んだ創刊号の巻頭句が上記の3句でした。なるほど、俳句の中に‥‥‥‥その前に漢字が難解すぎる(笑)。作者の田川飛旅子(たがわ・ひりょし)は東大卒の科学者であり、敬虔なクリスチャンであったとか。のちに俳誌「陸」を創刊するほどの実力者でもありました。ちなみに、家庭の事情で18歳で中学校の教師となった楸邨は、依然学問への強い思いを断ち切れず、32歳で東京文理科大学国文科に入学しています。そして卒業後に再び中学校の教師となりました。その同年の10月、周囲の強い勧めで「寒雷」を創刊しています。(人生いろいろですね。)<難解な巻頭句について>胸の瀑布替へゐるひまも聴く野分※瀑布(ばくふ):滝のこと。※野分(のわけ):【秋の季語】雨を伴わない強風。台風や嵐のことをいう。蚊帳透きて昧爽の書架見えはじむ※蚊帳(かや):【夏の季語】蚊を防ぐために吊るすもの。夏はこの中で寝る。※昧爽(まいそう):夜明け。暁。明けるころのほの暗さ。※書架(しょか):本棚のこと。かなかなに窓の朝焼須臾の間ぞ※かなかな:【秋の季語】ひぐらし。蝉の一種でカナカナと澄んだ声で鳴く。※須臾(しゅゆ):しばらくの間。わずかの間。【加藤楸邨(かとう・しゅうそん)】明治38年(1905年)~平成5年(1993年)/東京生まれ。病気の父を助けるために進学をあきらめ、18歳で中学校の代用教員となる。その同僚に誘われ作句をはじめた。水原秋櫻子に師事、「馬酔木」同人。昭和15年に俳誌「寒雷」を創刊、主宰。戦時下の学生層作家の拠点となった。弟子に恵まれ、金子兜太、森澄雄、平井照敏などを排出した。芭蕉研究家、青山学院女子短大教授。
引用: 「寒雷」十月号(創刊号)/交蘭社(昭和15年10月)
楸邨の俳句の材料は、自分の中のわだかまりや憤り、そして孤独感です。おそらくそれらを変換もしくは断片化しています。(ゆえに、ひとり言っぽく、詩的で、難解なのです、たぶん。)裏を返せば、人として明るくあるための「負との対峙」、そこに視点を据えたものこそが楸邨の俳句なのかもしれません。
※上記巻頭句に関しては、該当資料からの引用として収集・掲載させていただいています。※旧漢字については、インターネットの特性上、また初心にも読みやすいよう考慮し、常用漢字に変更している場合があります。 ※「ゝ」や「ゞ」などの踊り字については、横書き表示ということもあり、読みやすさを優先するため、適切な平仮名に変更させていただいています。