花衣  はなごろも

三月号/昭和7年3月(=1932年3月)号
一冊(一部): 三十銭

「雑詠」巻頭句 杉田久女 選

俳号: 荒川つるゑ  所在地: 小倉

大年の庭木ゆすぶり掃きにけり    
笹鳴に佇ち山茶花に遅れけり    
紫の小草の花や春隣    
葉牡丹のいみじき襞の深緑    
かけてあるコートの裾の草虱    

俳誌一覧(発刊順)

ホトトギス ( 高浜虚子/明治41年10月 )
層雲 ( 荻原井泉水/明治44年7月 )
雲母 ( 飯田蛇笏/大正6年12月 )
馬酔木 ( 水原秋櫻子/昭和3年7月 )
かつらぎ ( 阿波野青畝/昭和4年1月 )
玉藻 ( 星野立子/昭年5年6月 )
花衣 ( 杉田久女/昭和7年3月 )
寒雷 ( 加藤楸邨/昭年15年10月 )
風花 ( 中村汀女/昭和22年5月 )
芹 ( 高野素十/昭和32年5月 )

よむヒント

俳誌『花衣』の創刊は、杉田久女が、『ホトトギス』の雑詠欄で活躍していた時期と重なります。昭和初期、個性的な女性の生きにくかった時代です。事実、創刊のあいさつ文において久女は、「過去の私の歩みは、性格と環境の激しい矛盾から、妻とし母としても俳人としても失敗の歩み、茨の道であつた。」と独白し、「幾度か死を思つた事もある。」とまで綴っています。その心の叫びが、天才といわれた久女の俳句の種であったのかもしれません。
杉田久女の主な代表句
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
花衣(はなごろも)とは、花見に着る衣装です。(大正8年作/29歳)
足袋つぐやノラともならず教師妻
「なれず」ではなく「ならず」という言い回しに久女の屈折を感じます。久女の夫は福岡県小倉市の中学校の美術教師。ノラはイプセンの戯曲「人形の家」の主人公の名前。「足袋(たび)」が冬の季語です。(大正11年作/32歳)
谺して山ほととぎすほしいまま
久女といえばこの句でしょうか。『谺(こだま)して山ほととぎす』まではすらりと頭に浮かんだそうですが、それに続く下五がなかなか定まらず、何度も山に登って得たフレーズだと言われています。(昭和6年作/41歳)

『花衣』は女流だけの俳誌として昭和7年3月に創刊されました。わずか5号で廃刊となりますが、その後の女流俳句に与えた影響は多大なものでした。そんな久女が選んだ創刊号の巻頭句が小倉市在住の荒川つるゑの5句です。

※大年(おおとし)=【冬の季語】大みそかのこと。
※笹鳴(ささなき)=【冬の季語】ウグイスがチッチッと鳴くこと。この時期、ホーホケキョとはさえずりません。
※佇ち=ここでは「たち」と読ませます。佇(たたず)む。
※山茶花(さざんか)=【冬の季語】ツバキに似た花ですが、ツバキほどの派手さはありません。花びらは、一枚ずつはらはらと落ちます。
※いみじき=形容詞「いみじ」(古語)の連用形です。ここでは「立派な」という意味で使われています。
※草虱(くさしらみ)=【秋の季語】道端によくある雑草。たくさんの棘がある小さな実が、知らず衣服に付いていることがあります。

【 杉田久女(すぎた・ひさじょ) 】
明治23年(1890年)、鹿児島生まれ。大正中期から「ホトトギス」の雑詠欄で注目されるが、昭和11年(1936年)突如「ホトトギス」同人を除名される。理由は明らかにされていないが、その言動と行動から誤解されやすい女性だったという。以後、俳句と絶縁。終戦まもない昭和21年1月(1946年1月)永眠。享年56歳

引用: 「花衣」三月号/花衣発行所(昭和7年3月)

矢印

【 杉田久女に学ぶ、名人の視点!】

「らしさ」について考えてみる。

久女の傑作とされる句には、総じて女性らしからぬ力強さがあります。久女自身がそれを意図していたかどうかは分かりませんが、少なくとも男性は男性らしく、女性は女性らしく、という発想はなかったのでしょう。いつだって固定観念から新しい何かは生まれません。

あらためて上記巻頭句を味わってみる

「創刊号の俳句」の参考書籍、おすすめの書籍

※上記巻頭句に関しては、該当資料からの引用として収集・掲載させていただいています。
※旧漢字については、インターネットの特性上、また初心にも読みやすいよう考慮し、常用漢字に変更している場合があります。
※「ゝ」や「ゞ」などの踊り字については、横書き表示ということもあり、読みやすさを優先するため、適切な平仮名に変更させていただいています。